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宮近門の墓 地域の史跡めぐり資料から 坂根の金持寺観音堂の南側山腹に古い墓石群があり、その塔身には梵字があるようですが判然としません。
いろんな特徴から室町時代のものと判明します。(福山市史にも宮近門の墓ときされています) 宮近門は藤原氏の出で嘉吉の乱)(1441)
の際に戦いに敗れ、祖父は戦死し父は近門と共に京都に隠れ住みました。
父の死後、備後国品治郡亀寿山城主宮若狭守秀景や沼隈郡草戸中山城主渡辺信(後の越中守兼)と親交があり、
近門は秀景と兄弟の契りを結んで姓を「宮」と変えて、 宮近門民部左右衛門藤原信定と称しました。
近門は、在京中 日親上人に深く帰依し、文明年間 上人に同道して備後に下り、
当時の一乗山城主として勢力盛んであった兼を山田に尋ねました。たまたま近門が病死し、兼は遺言によって
近門をこの地に葬り、近門は上人より貰った三幅対を本尊として寺を建立す志がありましたが果たせなかったので、
兼はその遺志をついで常国寺を建てたの言われています。
熊野学区ふれあい事業推進委員会発行 備後熊野町の伝説と民話より
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