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里山わくわく祭りin熊野町 里山わくわく祭りin熊野町、配布説明資料(抜粋) 今日はようこそ里山里地わくわく祭り in熊野町の散策にご参加いただきありがとうございます。ガイドを務めさせていただきます、稗田と申します どうか宜しくお願いいたします。 初めに注意事項を申し上げます。 一乗山は小さな山城ですが、攻めにくくするために、堀切等で谷を作り、道幅も極端に狭いところがあります。足を踏み外すと危険です。今日はゆっくり歩いてもらうため休憩も 含め約1時間30分時間をとりました。十分注意しながら散策をしましよう。 熊野学区の概要を簡単に説明します。 東は熊が峰 (標高438m) 国土地理院版地図の三角点の山です。北は彦山 (標高430m) 3m50cmの牛が長く伏したような形の石。方位石 南は夏霧山 (標高350m) 西はやや低い丘陵地帯に囲まれた盆地に位置しています。 常国寺は、当時二王門の法界碑の前が論田池の堤防でその上が参道になっていた。 二王門(仁王門)前に角柱石 全高約470cm熊野で最大のものである1831建立がある。 この仁王像は明治13年1880年深安郡深津村の薬師寺が廃寺となった時、 売り出され、熊野からも買いに行った。 ところがその人が いなげな着物をまとっていたので、先方はどうせ買えないであろうと思い安い値段を云ったので、即金で買い取って持ち帰った。 旧岸の坊跡の角柱石 1736法界碑はもと常国寺二王門の前に建っていたが、現在の大きな法界碑5が新 しく建立されたので岸之坊へ移されたということである。 常園寺唐門、別名特軍門福山市重要文化財 福山市の重要文化財に指定された、1964年、(昭和39年10月10日) 現在の唐門は江戸中期1688年から1703年に再建されたものといわれますが、扉正面上の乱れ桐紋の彫刻は桃山様式を伝える優美なさくです。足利家ゆかりの桐紋は足利 義昭が常国寺に返留中1582年頃ここを将軍館として使用した名残であろうと思われます。 唐破風四足門の門扉には、くっきりと二引両の足利の家紋がえがかれている。これは将軍家の許しを得なければ使えない格式です。ここが義昭の御所であったなによりの証です。 足利家の家紋る二二引両 マルニフターリツビキリョウ、 五三の桐 (3本の枝のうち真ん中の枝に花が5つ、左右の枝に花が3ツづつあり、三、五、三となっている) 五七の桐 (3本の枝のうち真ん中の枝に花が7つ、左右の枝に花が5ツづつあり、五、七、 五となっている) 足利義昭は1537年12月15生まれました。 次男 天正4年1576年15代将軍足利義昭が織田信長に京都を追われて、毛利輝元を頼って鞆に逃れ、この地で再興を志した。 錦鶏の庭 (キンケイのニワ) 心字の池の向こうに小高い山があり、山の中腹に茶室を配した作りが、京都の等持院の庭に良く似ていている。こちらは夢想疎石 (ムソウソセキ)が作ったものと伝えられ、庭の中央には足利尊氏の墓が築かれている。義昭は常国寺に等持院とそっくりの庭を作り、都と足利家の盛時をしのぶ世姿としたのであろう。 だとすれば分骨を景に送るように遺言したのも、尊氏のように庭に埋めて欲しいいと願ったかもしれない。 NHK大河ドラマ軍師 官兵衛の撮影室町幕府十五代足利義昭将軍着用の常国寺所蔵の胴肩衣(ドウカタギヌ)、天正年間1573年から1592年本堂、将軍門の撮影がありました。 本堂にて 将軍義昭公のお位牌と義昭将軍が景に贈った胴肩衣がカメラにおさめられました。 常国寺 は義昭の御所として提供され、千年、公方様が常国寺にいらっしゃったと義昭の側近の真 木島昭光が記した書状や義昭が渡辺氏に送ったとされる胴肩衣また、義昭が書いた御内書 などが残っている。 一乗山城主3代目高は 毛利輝元(元就の長男)から義昭の警固、接待役を命じられた。渡辺一族の軍を抜いた活躍に 義昭が感動して守護大名格とし、自傘袋(しろかさぶくろ)と毛氈鞍覆(もうせんくらおおい) 天正年間1573年から1592年の使用が許された。使用許可をもらった時の許可文書が今も常国 寺に残っている。 天正8年(1580年)義昭が鞆に亡論した理由は 3つあった。ひとつは、鞆は毛利元就の3男 であることである。小早川隆景の居城・三原城に近かったこと である。 鞆の安国寺には住持として、かねて気心の知れた毛利家の使僧・安国寺えけいが居たことも心強かった。次に鞆が足利氏に縁起が良い地でであったことである。 3つ目は 毛利氏はいかの上水軍の一族が大可島(タイガ島)城を拠点として鞆を守っていたことである。 庄昌山常園寺 二説あります 沼隈郡誌によりますと、初代城主越中守兼以前に勢力があった大内幕下に宮近門民部左衛 門藤原信定(ミヤ チカトミンブザエモンフジワラノブサダ)、は常に京に上り、日親の上人 の熱烈な信仰者となりその後、愛茶羅まんだら等三品をいただいて帰国し、一寺建立を発願したが生前本位を果たすにいたらず兼にこれを委託す。兼が常国寺を文明末年1486年、日親上人を開基として創建した説と また、一説に、毛利元就が兼に命じ、備後三台守・三好・宮・杉原のうち一人を討ち取るにおいては忠賞を行うべし、宮長門民部左衛門尉信元親与之(ミヤ ナガトミンブザエモン イシンゲンシントコレ)を討ち取り勲賞ほうびとして三、山田を賜り一乗山に城を築く、 兼は16才の時上京して日親上人の説法を聴き、妙法受寺の行者となり常国寺を建立し、且つ日親上人の御影を俳工に命じて彫刻せしめ、永く供養を設けて師に開眼を懇望した。上人はその志を感じ、老後、自落の歯二つを像の首中に入れて開眼した。 日親からから下賜(ゲシ)されたという塁茶羅本尊まんだらにははっきりと宮長門民部左衛門 尉信定親与之(ミヤ ナガトミンブザエモンイシンジョウシントコレ)とある。 やはり以前か ら言われてきたことだが、常国寺は宮信定が創建し、渡辺氏が受け継いだものとした方が 良いようである。 [藤田達生先生の見解です。] 山内六ヶ坊と二支院 (寺迫上薬師にある薬王山寿量寺・大富西の四大山法縁寺) 近郊を中心に末寺八ヶ寺 (鞆の顕政寺、福山の通安寺その他)を有する中国地方有数の中本寺であった。 大正15年山内六ヶ坊を合併、昭和17年宗教団体法施行の際、支院末寺の関係を解消した。 昭和ニ十七に制定された宗教法人法により日蓮宗に包括される法人として今日にいたっている。 千部会(せんぶえ) 年間行事春秋の彼岸会、蓋蘭盆会のほか4月には千部会、11月にはお会式や虫千会寺 (寺の宝物を展示する)などがある。 明治12年9月付けの明細長では総代は1名であった。明治16年6月付けから総代3名制はこの時からと思われる。 昔の住職は、外出時に槽家への往復には専属の駕籠に乗り 決して歩くことはなかった それほど格式を重んじたのである。 水呑の妙顕寺(ミョウケンジ)北吉津の妙政寺と共に日蓮宗の備後三山とも言われ、三山の住職を皆、御前様と呼んでいる。 千部会中参詣の最も多かったのは昭和12年千部会中の開山日親上人第450遠忌法要当日で 岡山、福山旧市内、鞆などの団体参拝もあって3500人にのぼった 千部会は明治12年熊野村初代村町宮沢直平の父の提唱で創始されたもので 当初は桜咲く春陰暦3月11日から20日までの10日間常国寺に縁の深いお上人方をお招きして一日1部の法華経読謡をお願いし本仏、宗祖、開山上人守護の諸尊への報恩、先祖にご回向、祖先に供養を捧げ合わせて壇徒の滅罪と安穏を祈ったのである。そもそも・千部会とは69384字で綴られた法華経を1000回読謡する行事である。 千部会最終日には毎年植家のご先祖を総供養する施餓鬼法要が執行される。 3代目が高 永禄12年1569年神辺合戦で活躍する。 天正4年(1576年)15代将軍足利義昭が織田信長に京都を追われて、毛利輝元を頼って鞆に 逃れ、この地で再興を志した。 輝元から義昭の警固、接待役を命じられた。渡辺一族の軍を抜いた活躍に義昭が感動して 守護大名格とし、白傘袋(しろかさぶくろ)と毛豊毛鞍覆(もうせんくらおおい)の使用が許され た。使用許可をもらった時の許可文書が今も常国寺に残っている。 天正8年(1580年) 小早川隆景が備前の宇喜田直家を攻めた時に戦死。行年28才この時嫡子 は幼少なので叔父の元に養育され 上之原に居ったが慶長5年1600年福島正則が備後の領主となったので祖父 房の居た野 浜に移り農人となる 4代目が元 義昭公はこの寺の恩を感じておられたので、扇子、肩衣・硬箱などをかたみに 送ってこられたということです。天正19年(1591年)に出家する。 日蓮大聖人 1222年2月16日に千葉県名が長狭郡(ナガソゴオリ)東条の郷小湊コミナトの漁船にお生まれになりました。両親は漁夫で貧しい暮らしをしておりました。 12歳の御時、道善房を師として仏門に入られ16才の御時、正式に出家されました。一切の 民衆を迷いと苦悩から救済したいと大願を抱いておられた。 1257年8月の大地震などをきっかけに立正治国論を著述あそばされたのです。その大意 は、一切の災難の根本原因は、時の主催者はじめ万民が正しい仏法に背いて邪宗、邪義を 反逆内乱 他国からの侵略の二難が起きるであろうとの国家に対する一大 警告でした。まさしく、立正治国論こそ民衆の悲痛なまでの叫びを聞いて、決然と立ち上がれた日蓮代聖人の至誠の書だったのです。 日親上人 日親上人は、1407年に上総国植谷千葉県山武市植谷の植谷一族に生まれ、植谷氏が信仰していた中山法華経寺の日英上人の弟子となる。やがて九州の導師として佐賀県の光勝寺へ下向されここで教団の指導にあたられた。佐賀県内には光勝寺をはじめ、日親上人により 開かれた寺院、他宗より改宗された寺院や霊跡が数多くあります。 日親上人は厳格な日蓮宗の信仰を主張され、領主の千葉一族を厳しく批判されたため 1437年についに破門されて光勝寺をさり、再び上洛されました。 その翌年、将軍足利義教に対して、日蓮聖人の教えを信奉し他宗の信仰を捨てることを直訴されましたが、まったく受け入れられず、そこで再び試みようと立正治国論を著され、これを浄書しているうちに捕らわれ牢にいれられました。将軍が謀殺したので、特別の恩赦によって出獄されました。このあと、日親上人は京都に本法寺を建立、ここを本拠とし、全国各地を廻って伝道につとめられました。ところが、日親上人の 主張は日蓮聖人の教えを守ることを激しく要求し、他宗を激しく攻撃するものでしたから、 行く先々で迫害をうけられました。日親上人は、立正治国論を草して足利義教(ヨシノリ) 六代将軍に献じ、義教(ヨシノリ)の欠点を厳しく指摘した。将軍の怒りに触れた日親は、他宗派の念仏を唱えるように強制されましたが、その命に従わなかったので、舌を切り、さらに熱く焼けた鍋を頭にかぶせられながらも南無妙法連華経のお題目を唱え続けたことから日親は、鍋冠日親とよばれるようになりました。 幕府は再び牢に入れ刑罰を加えましたが、翌年臨時の大赦で自由のみとなり82才で病により、伝道と法難の生涯を終えられました。 熊野の開山堂の日親上人像の体内には、上人の肉付御歯二枚が納められ、古来より願いがかなう願満の尊像として信仰を集めている。 本堂裏に黒木城 渡辺氏歴代えいいきと書かれた立札のある一段高墓があるえいいきとは 墓所のこと 7基の五輪塔と擬宝珠石柱がたっている。一乗山城主渡辺氏一族の墓である が、どの墓石が誰なのか不明である。 明細長に常国寺の鎮守堂本尊は喜正菩薩 由緒不詳 日感上人建立と伝える。 三光堂 喜正堂に並んで建っている。明細長に常国寺の鎮守堂 本尊は三光天王、由緒不詳 番神社 福山市重要文化財に指定された日は、1964年 (昭和39年10月10日) 田の番をする神で30体あります。毎日交代で田を見回るといわれています。 銅版ぶきの建物の内部に小さなお宮が置かれており、それが番神社です。 造りは、一間社・ 正面に唐は破風を設けた千鳥破風付入母屋造、こけら華の元禄時代の小社様式をよく伝えています。 常国寺の鐘楼 (福山市重要文化財) 元禄時代に建立された一間単層入母屋造で施主は福山藩家老職 水野玄著の母方です。当 時の鐘は戦時中に楚鐘類供出により、現在の鐘は戦後になって鋳造したものです。 常国寺のケヤキ(福山市天然記念物)三本=レ科の落葉高木 旧谷之坊のモッコク((福山市天然記念物) ツバキ科の常緑高木樹高は14m周囲1.9m余りで県下でも一、二を争う巨木です。 語曲 常園寺 藤木郁三郎作 本堂前に高さ220cm石灯籠の一対が立っている。それには延宝五丁己五月二十六日1677 年 片山氏真清と彫られている。年代の明刻してある石造物としては熊野で二番に古いも のである。 常国寺廣昌山 山頂の将軍塚 義昭は天正も十六年に出家するまで将軍位にあったことは公卿補任という朝廷の人事記録 にも明記されています。鞆に移ってからは輌幕府を開き将軍としての公権を行使していた ことも確認されている それなのにどうして、天正元年京を追われたことをもって将軍位を失い、幕府も滅んだように伝えられてきたのか、その理由は、江戸時代に意図的にそうした改ざんがおこなわれてきたからだろう。なぜ改ざんする必要があったかと言えば、天正元年から本能寺の変 が起こる十年間は、徳川家康が信長の同盟者として義昭や毛利輝元と戦っているからだ。 神君家康公が足利幕府と戦ったことは伏せておきたい。家臣が将軍に刃向かえば謀反になるし、家康が足利幕府を倒すために戦ったことが明らかになれば、諸大名がそれにならって行動を起こすことを論理的に止められなくなる。そこで、おろかな将軍義昭が正しい国づくりにまい進していた信長に橋突いたために、家も幕府も亡ぼして裸一貫になってしまったという筋書きを作り、それを証明する資料だけを集め中には偽造して偽りの歴史 を作り上げた。そうした偽史が明治維新後もあらためられなかった。 常国寺は義昭の御所として提供され、千年、公方様が常国寺にいらしゃったと義昭の側 近の真木島昭光が渡辺氏に送ったとされる胴肩衣また、義昭が書いた御内書などが残って いる。 義昭は慶長二年1597年61才で他界する時、分骨して渡辺影に送るように遺言した。それ を受け取った景は、遺骨を葬って将軍塚と名付けたという。 それは戦前までありました。ところが戦争中に足利は国賊だという教育がなされ、それを 信じた村の子どもたちが墓石を谷底に投げ捨ててしまった。それがいまだに見つかっていないのです。義昭は常国寺に京都の等持院とそっくりな庭を作り都と足利家の盛時をしのぶ様子がたとしたのであろう。だとすれば分骨を景に送るように遺言したのも、尊氏のように庭に埋めてほしいと願ったからかもしれない。藤田達生 一乗山について 一乗山城は別名黒木城又は七面城ともいう 一乗とは、天台宗の宗義である法華一乗の法門、頓一乗より名付けたのであろう。 頓一乗とは仏語。仏の真実の教えは絶対平等であり、それによってすべての人が成仏できると説く教法。教法を悟り さとりの彼岸に運ぶ乗り物にたとえた語 立正校成会 渡辺家が詰めの城としてきずいた山城で、山の両側には谷川が流れ、尾根続きの一方には 堀切をして敵の侵入をはばんでいる。 小規模ながら静観な面構えをした山の要塞(ヨウサイ)である。渡辺元や景は、万一の時にはここに義昭を避難させ、援軍がくるまで、守り抜く 覚悟だったのである。 一乗山城は山城で常にここに寝起きしているのではなく、 平時は山に住みいざ戦いという時にたてこもるための防塞であった。戦いに備えて食料品 を備えていた。 標高240mの七面山の上にあり、昭和39年3月31日に福山市史跡に指定された。最高部 に23.4m、東西18mの主郭(本丸ョを置き、南端には土塁がある。本丸跡・横井戸・縦井戸 この城は関東より備後に移り山田の庄を領有した渡辺氏の居城である。 戦国時代の渡辺越中守兼がここに築城しその後、房、高、元、景に至る五代の間約100年 毛利氏の旗下にあって活躍したが、関が原の合戦に破れは廃城となった。 論田池を城漂として構え、山頂を削平し、本丸以下の階段を設けた中世の山城である。築城は戦国時代よりも古く室町時代とされている。 幸運にも戦場にならなかったので、比較的残存状況が良い。 本丸 山頂を削って作った平坦部 城の主要部分堀切敵が侵入しやすい場所(山尾根)へ大きな溝を掘ったもの。 畝上堅堀群(ウネジョウタテボリグン)大きな溝を山の斜面方向に掘ったもの。敵の動きを封じる。 人呼び台本丸よりも一段高くしてある。 七面明神 城の守り神 渡辺氏は、 羅生門で鬼の片腕を切ったといわれる渡辺綱の一族といわれ、その名は代々、兼かねる、 高、影、のごとく一時だけを使っている。世に一字党と呼ばれる氏族である。 文明年中1469?(1486年か?)、または永正年間(1504年)から1520年頃に草戸村 (明王院) から山田村(現在の熊野町)に入ったと考えられています。 初代渡辺兼が一乗山城を築き、常国寺も建立しました。非常に武勇に優れており、永正元 年(1504年)の出雲の尼子氏の備後攻めや、天文3年(1534年)の毛利氏、大内氏による亀寿山 城攻めで活躍した記録が残っています。山名氏、大内氏、最終的に毛利氏に属し、毛利氏から非常に信頼された一族だった。また、京都にいた16歳のころ日親上人の説法を聞き、 熱狂的な日蓮宗の信者となり、渡辺氏の菩提寺として常国寺を建立した。そして当時の この地方は山南光照寺の勢力が強大で多くの真宗寺院が存在していたが、住民全員を日蓮宗に改宗させ、既存の寺院も日蓮宗に転宋させた。この指示に従わなかったものは村外へ追放するなど、半ば強引なやり方であった。そのために随分多くの人々が涙ながら住みなれた山田を後にして去った。お寺の退散だけでも14.5ヶ所の寺はあったと郷土読全巻にのっていました。 鞆町には、山田より移ったといわれる真宗寺院 真宗大谷 明えん寺あります。鞆の浦で も残っているのは阿弥陀寺の二箇所だけです。朝鮮鐘の形式が取り入れられた貴重な鐘で す。山南には浄土真宗熊峰山 光林寺がある 山田一村丸法華と言われる所以である。天文15年11月8日1546年に一乗山城にて死去 二代目が房 父兼の影響で幼少期より軍事に優れる。厳島合戦などで活躍しました。 1572年に隠居して仏道に入る。 三代目が高 永禄12年1569年神辺合戦で活躍する。 天正4年1576年15代将軍足利義昭が織田信長に京都を追われて、毛利輝元を頼って朝に 逃れ、この地で再興を志した。 輝元から義昭の警固、接待役を命じられた。渡辺一族の軍を抜いた活躍に義昭が感動して 守護大名格とし、自傘袋(しろかさぶくろ)と毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)の使用が許された。使用許可をもらった時の許可文書が今も常国寺に残っている。天正8年(1580年)小早川隆景が備前の宇喜田直家を攻めた時に戦死。行年28才この時嫡子 は幼少なので叔父の元養育され上之原に居ったが慶長5年(1600年)福島正則が備後の領主となったので祖父 房の居た野々浜に移り農人となる。 四代目が元 義昭公はこの寺の恩を感じておられたので、扇子、肩衣・硬箱などをかたみに送ってこら れたということです。 天正19年1591年に出家する。 五代目 影 文禄元年 1592朝鮮出兵の時、小早川隆景に従って出陣し、軍功をあげる。 景は隆景の一字という。景は隆景を敬して上之原西之原に五輪塔を建てて隆景を供養した。 これが後に在地の人々により隆景神社となって今日に至っている。 関が原の戦いで毛利輝元が負けたため、一乗山城は廃城となり影は浪人として美濃国 岐阜県に逃げ仏門に入り朴安と号した。 江戸時代になり福山藩主となった水野勝成は名家渡辺家を惜しんで、影の5人の息子のう ち4人を家臣にし、残り一人 三男は常国寺七世住職となって日保と号した。4人は水野家 廃絶後は阿部家に仕え、廃藩置県まで吉津番所の役人を務めた。廃藩置県後は番所役人職 を返上し、一町民として生活を送った。吉津番所跡には渡辺神社があり、名家の名残を残 している。 そして渡辺家が菩提寺を野ノ浜大門町の蓮瑞寺に移したのは の時代と言われている 水野勝成の息子三男が通天院日保として常国寺を再興させた。8世として住職となりこの通 天院日感が番神社、開山堂、喜正堂、三光堂、太鼓堂、鐘楼等を建立し本堂客殿を再建し たときされている。景は福山に通安寺建立して末寺とした。 江戸時代慶長5年1600年に関が原の戦いが美濃の関ケ原にて徳川家康を大将とする東軍総勢 7万と石田光成を中心とする反徳川勢力の西軍10万とが陣構え関が原の戦いが始まり西軍 は多くの将が様子見で戦いに参加せず戦闘したのは3万程度であったが有利が働いて東軍 は少し押されていた。しかし、東軍の黒田長政らは事前に西軍の小早川秀秋らに戦いとなった際には、東軍に寝かえるよう調略していた。小早川秀秋は戦いに参加せず見守っていた。こんな姿にしびれを切らした徳川家康は、昼過ぎになって小早川秀秋の陣にめがけて 大砲を撃ち掛けた。徳川家康が怒っているとして、西軍を裏切って隣の大谷吉継らの陣に 突入を開始した。それが引き金となり調略を受けていた脇坂安治らも西軍を裏切って、東 軍として戦いに参加した。こうして、西軍は総崩れとなり双方合わせて6千から8千人の 戦死者をだした関が原の戦いは徳川家康の大勝利となったのである。 毛利輝元は西軍で敗れたため一乗山城は廃城となり 福島正則領となった。常国寺は無住となり、多くの文献資料は紛失したと寺伝にある。 徳川氏の代となって福山の殿様に水野公がこられた。村々へ辻堂を建てられた。柱が六 もある六本堂を建てられた。毎年殿様は今の熊ヶ峰の方で狩をされたとき、六本堂でお休 みになった。水野公にはお世継ぎがなかった。 七面山 七面堂 日蓮宗七面堂本尊は功徳天で火災から逃れた木造 像高さ約70cmで彫りや色彩から鎌 倉時代の逸物と言われている。兼が一乗山城を築いた時に、城の鎮守としてその天女神を 勧請したとつたえられている。 古来、七面堂は雨乞い祈願に霊験あらたかであったといわれている。 王屋畏者 元禄のころ六本堂のなべに王屋という長者があった田や畑やお金もちでもあった。 その時分の歌に土城がはらの砂はみてても、王屋のぜにはみてはせぬといったほど。 養を今の長者が原に埋めて居るとの話ものこっている。 徳川時代の終わりごろ鞆と熊野の村境について争いが起こり、両者とも引かなかった。 お役人に仲介に入った熊野の宮本長右衛門という人です。鞆の人の歌に帯は短し禅に長 し、山田薬師の鐘の緒にと言うのがありますが薬師さんは鞆のもんでしようかと申した。 ※ 熊野学区連合会 稗田副会長さん編集配布説明資料より(参照抜粋)
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